三津の朝市 道後の湯
松山市三津ふ頭1番地2
三津の朝市の起源は、応仁の乱がはじまった1467 年といわれています。湊山城主の河野通春が城兵の食糧(米・魚・野菜など)を近郊の農漁村より購入し、やがて多くの人々が集まり始め市を形成しました。その賑わいがやがて三津の朝市の起源となったのでしょう。
明治初期の魚市場の様子を富岡鉄斎が描いたものが残っています。これは鉄斎が明治8年、三津に宿泊した際夜明けに浜の魚市で酒の酔いにまかせて描いたものといわれています。明治初期はまだ青空魚市場であったことがこの作品から分かります。
明治21 年には写真のような円形建物が朝市として建築され、関西有数の大魚市場に発展しました。直径33m もの巨大な丸屋根を朝市のシンボルとなりましたが、昭和29 年に1 本の支柱損傷により崩壊したため昭和30 年コンクリート造りの魚市場へと姿を変えました。その後松山市の人口は年々増加し、50 万都市の水産市場としては手狭になり、昭和56年に松山市中央卸市場水産市場にその役目を引き継ぎ現在に至ります。近年では朝市を懐かしむ声が相次ぎ、年に数回旬鮮味祭りや夏にはシーフードバーベキューが開催されるようになりました。
参考文献:三津界隈はええとこぞなもし
「三津浜魚市図」
明治8 年 富岡鉄斎作
昭和 5 年頃の円形魚市場